2019/08/15②

午後、一日早い送り盆をしに墓参り。祖父、母、従兄の子2人と従兄のお嫁さんと。

その後、葬祭業者が来て、ドライアイスの入れ替えなどをしてもらう。何しろこんな季節なので暑い。そして前もって候補に挙げておいた写真の中から遺影に使うものを選ぶ。

みんなが「これだ」と思う、金婚式の日に庭で撮った写真は被写体が小さすぎて遺影には不向き(拡大と印刷でぼやけてしまう)。かといって、幼い私の弟を抱いて居間で撮ったものは笑顔こそ素晴らしいものの体の向きや着ている服が今ひとつ。

服を遺影用の素材に差し替えてもらうなら体が真正面か、向かって左に向いた写真を選ばなければならない(差し替え用の素材には真正面を向いたタイプと向かって左を向いたタイプがあり、顎から下を元の写真と替えるようになっているので)。

普段着の祖母の写真は向かって右を向いていて、そのまま服だけを差し替えると違和感が出る。祖父は「着物姿のものがいい」と金婚式の写真を推すが。なかなか条件が合わず。

試しに私が普段着の祖母の写真をスマホで撮って、素材の向きに合うように左右反転させてみた。表情が不自然になるかと思ったが、家族や叔母はうなずける出来。
祖父は「着物を着ていれば(普段着でなければ)金婚式のものでなくてもいい」と納得してくれた。

そういうわけで祖母の遺影は、
①なんでもない日に幼い孫を抱いて我が家の居間で楽しく撮り
②こっそりと左右を反転してもらい
③普段着から似合う色の着物へ服を差し替えてもらった、
みんなが納得できるものになる予定(今のところは)。

二十数年前の祖母は、まさかそんな他愛もない写真が(多少の加工を経て)将来の遺影になるとは思っていなかっただろうが。家が好きだった祖母が末孫を膝にリラックスして写った写真が、祖母の人生最後のポートレート、生涯を代表する写真として残りそう。
ずっと施設や病院で過ごした祖母の晩年を思うと、自宅での祖母の幸せそうな写真を特別なものとして残せるのは家族として喜ばしい。


その後、私は弟の運転で靴屋へ。礼服に合わせる黒いパンプスを買う。弟は切れた革靴の紐を。車中ではあいみょん椎名林檎の歌を聴いた。

夕食時には祖父が少し感極まる。酒がまわって感情が高ぶると昔の思い出や同じ話を何度もしたがるいつもの癖。

そして多くの来訪者への応対や葬儀に関わる煩雑な仕事に追われぐったり疲れた一同、台風の影響を案じながら祖母の納棺を待つ。祖父は今夜も祖母の枕元に寄り添って寝ている。

結局今日は親戚や隣近所の人が35人我が家を訪れた。たぶんここまでの私の人生で一番忙しくお茶を汲み続けた日だった。寝落ちから覚めて2時間経った今も化粧を落とせずゴロゴロしている。

人が一人死ぬというのは大変なことだ。これくらいやることが多いと気が紛れるし、葬式は遺された者のためにあるというのがつくづくわかる。