2019/08/20

飛んで、葬儀後2日目。

やっとこのブログを開く気になった。
今日は秋のようなどんより空。雨。

葬儀後もぽつりぽつりと家に弔問客が訪れる。
今日はどうかな。

父は祖母の書類一揃いを持って市役所へ行った。


喪失感は大きい。まだ生傷という感じ。

2019/08/17②

通夜。

祭壇は白とピンクと紫の花々をベースに、中央にヒマワリがあしらわれて優しく華やかな雰囲気だった。
ほんとうに、祖母は花が大好きだった。優しいピンクの着物姿にしてもらった遺影も、花に囲まれてよく映えていた。


通夜の会場に着いて祖母の戒名を知った。
祖母の名から一字と、祖母に似合う漢字がいくつも使われていて嬉しかった。

住職が読経の前に現代語で言った言葉(その眼は決して開かずその唇は永久に閉ざされ…といったニュアンスの言葉)が単純に胸に刺さって、拝みの前から涙が出てしまった。


祖母自身(88歳)の友人知人のほとんどはすでに故人となっている。または一人で外出ができないか、祖母と同じようにもう外の世界のことがわからなくなっているか。

それに祖母は我が家に嫁いで以来ずっと農作業と家事をして暮らしてきたから、職場での人間関係というものを持たなかった。それに運転免許もなかったから、祖母の行動範囲は家から自転車で出かけられる程度の近所まで。
家での仕事の傍ら、祖母はその小さな世界で、気のおけない仲間とグラウンドゴルフやカラオケ会、句会などに参加し、時おり仲間と旅行に出かけたりした。ささやかだが楽しそうな様子を子どもの頃によく見たものだと思い出す。

その仲間たちがもう祖母を見送る側にいないということが残念だった。

でも、祖母にとっては遠い大勢の親族をはじめ、喪主である父の同級生、祖父の知人、母や叔母の職場関係者や知人たちがずいぶん参列してくれた。だから祖母の通夜は決して寂しい式ではなかった。

唯一祖母の訃報を知らせていた私の親友も会場に駆けつけてくれたし(『どうしても時間の都合がつかず式には間に合わなかったが、会場に飾られていた写真ボードを眺めて手を合わせた。後日改めてお線香を上げさせてほしい』と後で連絡をくれた)。


閉式後の通夜振舞いは賑やかな雰囲気で進んだ。
献杯の挨拶をするときに叔父が緊張してメモのどこを読んでいるのかわからなくなり「あれ…?」とつぶやいたところで、会場から和やかな笑いも起きたし。

祖母の曾孫にあたる、父方の従兄・従妹の娘たち4人(小5・小2・小1・年中)はとても元気でよく食べたし。大人は疲れや緊張でピリピリしがちなので、子どもたちが天真爛漫に過ごしてくれているととても心が和む。



通夜を終えてみると、長生きすればするほど見送ってくれる人が少なくなっていくのは、当然ではあるが切ないことだと感じてしまう。

祖母の人生の大部分における「仕事」は農作業、庭いじり、日常の家事や子や孫を育てることなど、ほとんど「家」の中で営まれていた。古いアルバムに綴じられている普段着の祖母の笑顔を見れば、それが祖母の生きがいだったのだと信じずにはいられない。

祖母はこの「家」を、家族を、家を守る自分の人生をきっと愛していた。私たち家族は、いや私自身は、はたして祖母の愛に応えたられていたのだろうか。

明日はついに葬儀・告別式。朝が早い。

お通夜の読経でずいぶん涙が出たのだから、明日はもっと涙をこぼしてしまいそう。

2019/08/17①

通夜の朝。台風は過ぎ、フェーン現象でとんでもない暑さ。予想最高気温は37度。

朝から数人の来客。父や母は相変わらず事務的な仕事で忙しい。祖父はお寺へ通夜と葬儀の拝み料を納めに。


連日溜まった疲れで私は非常に眠く、今日は夕方まですることもないので自室で休むことに。

その前に祖父に昨夜頼まれていた祭壇の写真をスマホで撮影した。
納棺のときに撮っておいた祖母の写真も含め、祖父に確認してもらう。祖父は息を震わせてそれをじっと眺めていた。私が傍にいなかったら泣きたかったのだと思う。

「あとで現像するからね」と言うと「ああ、ありがとう」と祖父は笑った。


私が想像していた以上に祖父は祖母を愛しているのだということが、祖父の一挙手一投足から伝わって胸が痛い。


通夜まで数時間。家の中は緊張している。

2019/08/16②

祖母が自宅で過ごす最後の夜。

夕方になり祖母の遺影が届けられる。想像以上によい出来で祖父も満足。

家族で夕食をとっているとき、また祖父の昔話に花が咲く。祖父は、古い写真を貼ったボード3枚、祖母がかつて俳句を寄稿していた句集などに飾られた祭壇と祖母の遺影にたいへん心を打たれているようだった。
そして祖父は私に「明日の朝、祭壇のようすを写真にとっておいてほしい」と頼んだ。

昼のうちに祭壇の写真は撮っておいたのだが、朝は光の加減もまた違うだろうし、なにしろ祖父の頼みなのでもちろんまた撮る。


いつもは夕食が済み次第早々に寝てしまうことも多い祖父だが、祖母が家で過ごす最後の夜だからか、22時を過ぎても祭壇の正面に座って祖母の棺と遺影をずっと眺めていた。

そして、昨日まで祖母の布団の枕元に寄り添うように敷いていた自分の布団を、今日はもっと離れて祖母の棺と並行に敷いて寝ていた。

寝る前、朝起きたときに、祖母の遺影の笑顔がよく見えるように眠ったのだと思う。

畳にあぐらをかき、祖母の遺影を何時間も黙って見つめている祖父の背中を、私は永久に忘れられそうにない。言葉で表すことはほとんどなかったのだろうが、今のは祖父は存在そのものが愛なのだ。


私はといえば金曜ロードショーの「千と千尋の神隠し」をあまり集中せずになんとなく、猫を抱きながら眺めていた。

銭婆の「一度あったことは忘れないものだよ。思い出せないだけで」という旨の台詞にひどく泣いてしまった。
病気とともに失われてしまった祖母の記憶も、そうであってほしい。祖母は私たち家族を忘れたのではなく、思い出せなくなっただけだったのだと信じたい。

2019/08/16①

雨降りの朝、祖母納棺。

私の家族と叔母家族のほか、特に懇意にしている近所のご夫婦(祖父の従弟にあたる)が駆けつけてくれる。

棺には母の長姉が用意してくれた千羽鶴、施設で祖母がよく抱いていた柴犬のぬいぐるみ(誕生日の折に職員さんからプレゼントしていただいたもの)、そして歴代の愛犬たち3頭の写真を納めた。

納棺師は若い凛とした女性でとても手際がよく、感じがよかった。祖母に施してくれた死化粧もうつくしかった。

みんなが立ち会っての納棺の後、叔母が中心になり、葬儀会場に飾る写真をコルクボード3枚分ほど選んでセッティング。

両親の仲人だった方が朝刊を見て駆けつけてくれる。続いて母の長姉と、私の従姉とその息子5歳。従姉の実家からお気持ちとして飲み物や食べ物などをたくさんいただく。

納棺、写真選び、来客の対応などで今日も忙しく、気づくともうお昼。来客や叔母家族は帰り、家族だけで昼食をとる。疲れ果てていた私は自室にこもって猫と昼寝。
私より疲れているだろうに事務的な仕事に追われている父、日常の家事も並行している母には申し訳ないが。


礼服に合わせるパールのイヤリングを探しておかないと。

2019/08/15②

午後、一日早い送り盆をしに墓参り。祖父、母、従兄の子2人と従兄のお嫁さんと。

その後、葬祭業者が来て、ドライアイスの入れ替えなどをしてもらう。何しろこんな季節なので暑い。そして前もって候補に挙げておいた写真の中から遺影に使うものを選ぶ。

みんなが「これだ」と思う、金婚式の日に庭で撮った写真は被写体が小さすぎて遺影には不向き(拡大と印刷でぼやけてしまう)。かといって、幼い私の弟を抱いて居間で撮ったものは笑顔こそ素晴らしいものの体の向きや着ている服が今ひとつ。

服を遺影用の素材に差し替えてもらうなら体が真正面か、向かって左に向いた写真を選ばなければならない(差し替え用の素材には真正面を向いたタイプと向かって左を向いたタイプがあり、顎から下を元の写真と替えるようになっているので)。

普段着の祖母の写真は向かって右を向いていて、そのまま服だけを差し替えると違和感が出る。祖父は「着物姿のものがいい」と金婚式の写真を推すが。なかなか条件が合わず。

試しに私が普段着の祖母の写真をスマホで撮って、素材の向きに合うように左右反転させてみた。表情が不自然になるかと思ったが、家族や叔母はうなずける出来。
祖父は「着物を着ていれば(普段着でなければ)金婚式のものでなくてもいい」と納得してくれた。

そういうわけで祖母の遺影は、
①なんでもない日に幼い孫を抱いて我が家の居間で楽しく撮り
②こっそりと左右を反転してもらい
③普段着から似合う色の着物へ服を差し替えてもらった、
みんなが納得できるものになる予定(今のところは)。

二十数年前の祖母は、まさかそんな他愛もない写真が(多少の加工を経て)将来の遺影になるとは思っていなかっただろうが。家が好きだった祖母が末孫を膝にリラックスして写った写真が、祖母の人生最後のポートレート、生涯を代表する写真として残りそう。
ずっと施設や病院で過ごした祖母の晩年を思うと、自宅での祖母の幸せそうな写真を特別なものとして残せるのは家族として喜ばしい。


その後、私は弟の運転で靴屋へ。礼服に合わせる黒いパンプスを買う。弟は切れた革靴の紐を。車中ではあいみょん椎名林檎の歌を聴いた。

夕食時には祖父が少し感極まる。酒がまわって感情が高ぶると昔の思い出や同じ話を何度もしたがるいつもの癖。

そして多くの来訪者への応対や葬儀に関わる煩雑な仕事に追われぐったり疲れた一同、台風の影響を案じながら祖母の納棺を待つ。祖父は今夜も祖母の枕元に寄り添って寝ている。

結局今日は親戚や隣近所の人が35人我が家を訪れた。たぶんここまでの私の人生で一番忙しくお茶を汲み続けた日だった。寝落ちから覚めて2時間経った今も化粧を落とせずゴロゴロしている。

人が一人死ぬというのは大変なことだ。これくらいやることが多いと気が紛れるし、葬式は遺された者のためにあるというのがつくづくわかる。

2019/08/15①

朝から口見舞い客が30人ほど次々に訪れる。

94歳になる祖母の姉は驚くほどシャキシャキと元気でにぎやかで、太陽みたいな人だった。
かつて詩吟を習っていたというその人は、横たわる祖母の顔を見つめ線香を上げたあと、祖母のために自作の歌を歌っていた。若い日の思い出を懐かしむ歌だった。
祖母のお姉さんがずっと元気で長生きしてくれることを願う。

天気は一時的な強い雨、曇り、晴れを繰り返していた。
見舞い客にお茶を出しては下げ、お悔やみに駆けつけてくれたお礼を言い、従兄の子(小学1年生。祖母の枕元の御膳の山盛りご飯は減るのかどうか確認にきた。彼女いわく「減ってた」)の遊び相手をし、バタバタしているうちに午前中が過ぎた。

ようやく家の中が家族だけになり、まどろみ。